2年くらい前にミクシィに書いた原稿です。若干修正していますが、内容は変わりません。
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タイトル:外見と内面に関する考察、あるいは「身体的ヘクシス」
たとえば、自分が勤める会社や所属する集団の中で、「いつも目にするけれどもそれほど交流のない女性」に対し、男性が好意を持つかどうかはどうやって決まるのだろうか。
交流がないということは、お互いの会話もそれほどないと解釈できるから、趣味や生活信条といった内面に関する情報がほとんどないと仮定できる。すると、好意を持つことは、必然的に「外見」だけで判断することになる。
私たちは、人を外見だけで判断してはいけないと、子どものころから教わってきた。「外見よりも内面が大事だ」と、年ごろの男性も女性も優等生的に語る。実際、そう思っている人は多いだろうし、そう考えることが「成熟した大人」の姿だと考える人もたくさんいるだろう。
私は、人としての多面的なありようを「外見」と「内面」に分け、どちらかに(多くは内面に)優位を与える思考パターンに距離を置いてきた。それは、ほかの人よりも外見を重視するといった話ではないと考えている。
「外見」というと、まず思い浮かぶのは顔のつくりを中心とする容貌、体型、ヘアスタイル、ファッション等だろう。男性が性的視点で女性を見る場合、顔と体型に目がいくことは、あまたのメディアが証明している。ただし、メディアがつくるイメージは、我々男性の目を意識したうえでのイメージであり、つくられた姿であることも多くの男性が理解している。
私が考察したい場面はメディアの中ではなく「自分が勤める会社や所属する集団の中」である。通常、自分の生活空間の中に現れる女性は、静的な見た目とともに、動的な立ち居振る舞いが伴っている。そこには、しゃべり方、言葉遣い、話題、歩き方、姿勢、表情、他人とのかかわり方、その他一切の「目に見える行為」があり、複合的情報として私たちに伝達される。
メディアの中の女性は、それがメディアの中であるからこそ、性的視点に絞った外見をしている。それが性的興味を呼び覚ますグラビアでなくとも、見る側は「どこまで行っても最終的にはメディアの中」であることを自覚している。
しかし、たとえば自分の勤める会社なら、その場にふさわしい見た目と立ち居振る舞いがおのずとあり、それに外れた振る舞いに好意は持たれない。会社やビジネスの場においては、仕事をするのにふさわしいファッションがあり、しゃべり方があると考える男性は多いと思う。それ以前に、大人としての行動規範が暗黙の了解としてあるだろう。その場に応じた適切な見た目、言動は、その人の内面を表す外見である。内面とは、その人がそれまでの人生において獲得した性分の束であり、その人が育ってきた環境が反映されている。私たちは、動的な立ち居振る舞い(外見)の中にその人の内面を見出し、無意識に外見と内面の両面を判断している。
しかしながら、「それほど交流がなく、会話もない女性」に好意を持つことは、第三者から見れば「外見で判断した」と見られ、静的な見た目というイメージが強い「外見」という言葉に、男性は後ろめたさを感じることになる。
「内面」とは、一般に言われるやさしさや行き届いた配慮、道徳観、社会常識の程度、美意識、感性だけではない。会話しなくとも、他人を不快にさせない配慮や社会常識くらいは外見で分かる。他人とのかかわり方の中で、やさしさや道徳観も分かることがある。会話しないと分からないような「内面」は、実は会話に至った時点であまり重要ではなくなっている。立ち居振る舞いで好意を持ったならば、内面が多少自分の理想と違っていても、その違いをかき消すほどの好意的評価がすでに形成されているからである。理想と一致したり、想定以上の何かを感じたならば、それは最高の幸福だろう。
私は男性なので、上記のたとえ話を男性の視点から書いているが、男女を入れ替えても話は成り立つのではないかと考えている。私は、他人の行為や見た目について、当事者が深く考えずに行ったことでも、何らかの意味づけをしてしまう性格のようだ。言語化してしまうと言ってもよい。職業の影響もあるだろう。ただ、多かれ少なかれ、私以外のほかの人も無意識のうちに立ち居振る舞いから内面を読み取っているのではないか。
「文化資本」や「再生産」で有名なフランスの社会学者、ピエール・ブルデューは、「一見してそれと分かる慣習的行為」を身体的ヘクシスと呼んでいる。身体的ヘクシスには表情、しゃべり方、言葉の選び方、場に応じたファッション、話すときの視線、歩き方(フランスではこれが重視されるらしい)、姿勢など、およそ外見や態度と見なされるものがすべて含まれ、ぱっと見ただけで一定のイメージを呼び起こす状態をいう。
ブルデューは、お金には換算し得ない教養や知識、所有する本、絵画、親の会話、友人関係、家庭環境など、文化的素養に関する事象の総体を「文化資本」と呼んだ。「文化資本が高い」とは、文化的な事柄に関する環境に恵まれているということである。
つい最近出たブルデューの「結婚戦略」では、この身体的ヘクシスが文化資本と同様の「資本」であることを主張している。恋愛や結婚という「市場」において身体的ヘクシスの「資本」が高い者は、容易に相方が見つかるということだ。顔の造形や体型にある程度のマイナスがあっても、振る舞いや会話でいくらでも資本を増やせるというところが、多くの人に希望を与える。振る舞いや会話で上のレベルを目指す人が増えると、社会全体が好ましい状況に転がる。
冒頭の問題は、身体的ヘクシス(のレベル)によって決まるということだ。
日本では、若さを強調できなくなる30歳あたりになると「内面からにじみ出る雰囲気」が重視され始める。これは身体的ヘクシスと通じるものがあると思う。したがって、人を(身体的ヘクシスという意味での)外見で判断することは、それほど後ろめたさを感じる必要はないと私は考えている。もちろん、外見と内面の両方で判断した方が理想なのはあらためて言うまでもない。
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「俺は見た目も良くて、内面もオトナな女子が好きだぜ」って、当たり前のこと言ってるだけですね。小難しく書いてて恥ずかしいなあ。